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江戸時代
佃煮はその当初、漁師の時化や出漁の際の備蓄保存食料として発足したのがはじまりで、単に佃島の一名物に過ぎませんでした。その後次第に江戸名物として名声を博すようになり、江戸末期頃よりこれを佃煮と名付けて、江戸市中に販売する店が現れるようになりました。
当時佃煮は嗜好的な食品として、上層階級の間に賞味珍重されていたので、原料も湾内、河口で捕れるえび・はぜ・白魚・はまぐり・あさり等の活きのよい貝、小魚などが選ばれ、又製法も小型の煮釜が使用され、少量づつ丁寧に煮上げられました。
従って、その生産様式も家内生産の域を脱せず、店頭小売を兼ねた小規模なもので、生産数量も微々たるものでした。
明治時代
江戸時代末頃から、佃煮業が各地方にも広まって来たが、明治10年西南の役で発注が盛んになり、その後明治27・8年の日清戦争には佃煮が缶詰とともに軍用食として認められ、戦地に大量輸送された。
明治37・8年の日露戦争に於いて、佃煮の軍需品としての適性が充分に認められ、需要が伸び進歩を遂げた。
戦後単に一時的な軍需品に止まらず、日常副食品として、一般家庭に広く普及し、需要が大きく伸び、生産形態は家内生産より小規模ながら工場生産へと発展し、生産量も急激に増加した。
明治の後半くらいになると東京を中心に料理に甘味をつけることが流行し、それが佃煮にも用いられるようになりました。
大正時代
明治の末期より大正にかけて、従来の生鮮物の外に、するめ、たら、こうなご、削節、こんぶ等の乾物を原料とする方法が関西方面より各地に波及した。
この頃、製品に対して種々工夫がなされ、岡山県では切りいか・花かつを佃煮、秋田県では紅梅煮、東京では鯛でんぶ(原料たら)の桜でんぶが出荷され注目を浴びた。
佃煮に乾燥原料を多量に使用する事により製造の機械化が進み、次第に嗜好食品から実用的食品になり、大量生産方式に移っていきました。
さらに、佃煮の需要は関東大震災を転機として急激に上昇し、この頃、佃煮の問屋業者も現れて13・4・5年には佃煮業の黄金期となりました。
昭和〜現在
昭和のはじめは、不況の余波を受けて、次第に活況を失っていきます。しかし、満州事変より日華事変へと戦火がひろがるに従って、軍需・非常・防衛等の食料としての適性から促進され、再び活況を取り戻し、昭和14・5年には全盛時代を再現するに至りました。(桜でんぶ、切いかの佃煮が御茶菓子用として農村地方に愛好され、キャラメル等の菓子類を圧倒した)
太平洋戦争へと戦火が拡大すると統制が強化され、原料や資材の配給停止、徴兵による労働力の不足などから一路衰退の道をたどりました。
戦後24年に昆布の統制解除を筆頭に水産物、調味料の統制も撤廃になり、技術・設備・流通の進歩及び発展によって、戦前を凌ぐ状況にまで復興し、普及宣伝の競争時代を迎えるに至りました。
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